ふたり合わせたら、日本ラグビー史の主役の座にどれだけの期間立ち続けただろう。もうすぐお別れとなる現在の国立競技場にふたりの英雄が姿を現わした。
「あらためて言うのもヘンだけど、俺たち、ホント似たような名前だな」 松尾雄治がそう言うと、平尾誠二が「ホンマですね」と答えてカカカと笑った。
新日鐵釜石と神戸製鋼を全国社会人大会、日本選手権の7連覇に導いた両雄。日本代表の仲間としてプレーしたこともあれば、平尾が同志社大学3年時と4年時には、王者と挑戦者として戦ったこともある。国立の舞台は、華やかな舞台と重なっている。
当時のラグビー熱はどこから来ていたのか。赤いジャージーは、どうして無敵だったのか。ヒーローズトークは軽快で楽しく、奥が深かった。

憧れ。最高。目指した舞台。

――国立競技場についての最初の記憶はどういうものですか?

松尾:10歳のとき、東京五輪が開催されました。僕は運動しかない子どもだった。勉強すると叱る親でね。「勉強したらイヤな人間になるよ」と言うんです(笑)。お前は運動でいいんだから、と。だから、うちの親父はいろんな運動を見せに行ってくれた。多摩川の河川敷から始まって、いろんな競技場へ。東京オリンピックの時、アスリートたちが赤いジャケットを着て、国立競技場を歩く姿が格好良かった。感激しましたね。聖火台への灯火もよかった。俺もいつか、こういう舞台でできるようになるのかなぁ。そんなことを考えていましたね。

――9歳違いの平尾さんには、東京五輪の記憶はないですよね。

平尾:メキシコ(五輪)からやな。
松尾:当時、ラグビーはこういう大きな(総合)競技場でやるスポーツじゃなかったんですよ。球技場であり、土のグラウンドでやるのがほとんどだった。学校の校庭とかね。

――国立の芝を初めて踏んだのは。

松尾: 大学2年の早明戦だね。たくさんのお客さんがいた。前年のシーズン、大学選手権の決勝で明治が早稲田に勝ったんだよね。秩父宮で、まぐれ(公式戦35連勝中だった早大に13−12で勝利)だったんだけど(笑)。そういうことがあって、人気が出たんだ。あの年あたりからだね、ラグビーを観戦に来る人が増えたのは。

――大声援は、ピッチの上ではどのように聞こえましたか。

松尾: 声援が凄すぎて、本当に言葉が聞こえない。会話ができません。プレーが起こるたびに、ウワァー、ウワァーと沸いて、それが続く。(当時は)自分が興奮していたのもあるけど、グラウンドに出て行くとき、(スタンドからの)「頑張れ」とか、そういう声が聞こえるようになったのはずいぶん経ってからですね。だからグラウンドでは、本当に自分との戦いなんですよ。コーチの声も届かない。誰も、何もしてくれないんだから。
ただ、ここ(国立)はグラウンドが真っ平だからやりやすかった。秩父宮ラグビー場は真ん中が高く、タッチライン際が低いから。走りづらいこともあった。国立は芝も短いし、スパイクのポイントがよくひっかかってくれた。
平尾:僕は松尾さんが(明大)4年生のときの、早稲田との大学選手権決勝をテレビで見たのを憶えています。それまで、他の競技を国立競技場でやっているのを見ても「自分もあそこで…」とは思わなかったんだけど、あの試合を見て意識するようになりました。
松尾:本城や平尾が花園で(高校時代に)プレーしているのを見ていたよ。このふたりは違ったよね。なんだってそうなんだけど、理屈抜きにして、凄いって感覚で分かるんだ。高校生であれだけのプレーしてんだから、俺なんかより凄いって、すぐ分かる。足も速いしね。こっちはズン、ズン、ズンだけど、ふたりはピューッと行っちゃうんだ。
平尾:松尾さんの足が遅いっていうのは(実際に)会うまで知らなかった(笑)。テレビで見ているだけじゃ分からない。
ただ、高校時代までSOをやっていたから、松尾さんは雲の上の存在でした。初めて会ったのは日本代表合宿で、僕が大学1年の時だった。釜石7連覇の真っ最中で、松尾さんもいちばん充実している頃ですよね。(合宿中の)チームは違ったけど、同じピッチに初めて立てた。

会話もできない。ガチガチの若手。

松尾: 釜石は4連覇までは森さん(重隆/主将)とかチームの中心に凄い選手がいたんですよ。でもその後、ガラッと変わった。HOの和田(透)さんも引退して、ヘンなスローイングフォームの多田(伸行)に代わったりしたんだ。
平尾:凄い放り方でしたよね(笑)。
松尾: だから本当に一戦一戦必死でしたよ。連覇なんて、考えてできるもんじゃないし。(みんなにマークされているから)試合のたびに、サインを読まれている。偵察などない時代なのに全部。それじゃあ変えようかとなると、こっちが混乱しちゃう(笑)。高校を卒業して入ってきた純粋な若者が多いから、サインが出たら、思わず「ハイッ」て答えたりして誰が突っ込むかバレたり、とにかく緊張や、思うようにコミュニケーションを取れない状況で大変だった。だから、国立競技場で戦うときにまずやるべきことは、浮き足立っている若者をどう落ち着かせるかだった。目の焦点が合っていない者に、「人の心配するな。自分のできることだけやれ」と。「え、あの谷藤さんがボールを落としている…」とか考えているうちに、自分までやられちゃうんだから。「やってきたことをしっかりやったら、試合が終わったときには絶対にウチの方が点を取っているから」と信じ込ませるだけだったね。
平尾:釜石の連覇が始まった年に高校1年でした。年々強くなっていく様子を見ていましたから、その釜石と自分が、1月15日に、あの場所で戦う日がやって来るとは夢にも思っていなかったですね。大学1年生の時、大学選手権の準決勝で初めて国立で戦いました。2年生の時は怪我をしていたので、釜石とは大学3年生、4年生と戦った。もう必死で、あの釜石と…と思うわけでもなく、とにかく目の前の相手と戦う感覚だった。実力的にこちらが不利なのは分かっていたので、なんとかして勝ちたい。それしか頭になかった。
松尾: (あの頃の同志社大学は)大学生にしては出来過ぎのチームでしたね。完璧だった。うちをはじめとした普通のところは、チームとしてどう戦うかしか考えていなかったんだけど、平尾が考えていたのは、個人がやることに、みんなが反応できるようなプレーヤーにならないといけない、と。そんなことを考えていたから。それって難しいでしょ。(やることを)決めることで、「1、2、3」と素速く反応できるんだから。それが、俺たちがやっていたラグビーのレベルだったの。
でも、神戸製鋼の7連覇を見てくださいよ。一人ひとりがとてつもなくうまくて、さらに連係がある。うちの連覇の頃は、体はデカいけど動けないとか、いろんな人が…極端に言うと、あまり運動ができない人でもやれるのがラグビーだったのに、いろんなことができるアスリートのスポーツに変わっていった。同じ7連覇でも全然違う。

――平尾さんは釜石と実際に戦って、強さをどう感じていましたか。

平尾:実際にやってみないと、本当の強さがわからないチームでした。そして、戦うたびにドンと来る感じ。やられた、という感覚を強く残す相手でした。(初めて対戦した)3年生のときは大差で負けた(10−35)。やる前は「やれるんちゃうか」という感じを持っていたんだけど、グラウンドであらためて力の差を感じた年だった。ただ経験というのは大きくて、それがあるから、翌年は違った感覚で臨めたんです。だから前半は、思うようにやれた。でも…後半になると、ドーンと違いを感じさせられたんですよ。経験をもとに分かっていたつもりなのに、最後は同じような負け方だったし、前年までと同じ感覚を味わった。
松尾: 大学生はガムシャラに向かってくる強さがあった。でも社会人は経験があるから、試合が終わったときに勝っているのはこっち、というものがあるんですよ。でも、(学生チームでも)ゲームリーダーがいると違う。平尾のような存在がいると、(自分たちも)読まれるんだよね。リードされると、こっちも焦る。それに気づくから、うまく時間をつかってくる。うまいんだよ。 だからうちは、絶対に離されないようにしていた。離されそうになっても粘って、時間を費やしながら、敵陣に少しずつ入っておく。そうやっておいて、最後にそこからダダダダッと短い時間で得点を重ね、差を開いた。そうしないと(強い同志社には)勝てない感覚もあった。他のチームは後半に入ると、わりと早く差が開いたんだけどね。
平尾:僕は松尾さんの口を、注意深く見ていましたね。いつもFWに文句を言ったり(笑)、指示を出していたから。現在とサインの出し方が違って、直接的に伝えることも少なくない時代でしたから、何を言ってるのか見て、次にどうしてくるか、なんとか予測したかった。もともと釜石の方が強いんだから、それくらいやらないと抑えられませんから。

「出るならやめる」で臨んだV7

――国立競技場名物だった、釜石ファンの大漁旗での応援はどう感じていました?

松尾: あんな大きな旗を持って走ったりするんだから、凄いよね。相手チームの応援の人たちにとっては迷惑じゃなかったのかな(笑)。
平尾:こちらにしてみたら、いやなもんですよ。大漁旗に対して、こっちは小旗ですから。数では同志社が多いかもしれないけど、存在感が違いました。
松尾: 釜石から、あれだけ多くの人が来てくれるんだからありがたかったですよ。地元での優勝パレードにも、住民の全員が来てくれるんですから。悪い人まで見に来るから、泥棒にも入られる心配もない(笑)。

――釜石7連覇の年は、異様な雰囲気でしたよね。

平尾:国立競技場に到着してグラウンドを見たら、バックスタンドのど真ん中で釜石の大漁旗が振られていました。松尾さんの引退試合ということもあったのか、前年より応援が凄かった。
松尾: あの試合の前半は(釜石が)負けてたんだよな。
平尾:13−12で同志社が勝っていました。一時は13−6だったのに、前半の最後にトライを取られた。あれが悔やまれますね。あの日の釜石、最初は寝てたでしょ? きょうはイケる、と思いましたもん。でも(前半最後のトライは)釜石の形でしたよね。松尾さんのロングパス。釜石の強味が出た。勝負とはいつもそうなんだけど、あそこであと1分、2分我慢できていたら、と思いますね。

――リードされたときには、釜石側には嫌な空気は流れたんですか。

松尾: 流れてましたよ。しかも、俺が(戦前の足首の怪我で)動けない。ビデオを見ても、本当に動いてないんですよ。でも人間不思議なもので、ボールが来たときは動けている。昔、おじいさんに戦争の話を聞いたことがあって、そのときに思い出したことがあった。銃撃戦になって必死に戦ったんだけど、(基地に)戻ってきてから初めて撃たれたことに気づいたんだ、と。死ぬ気でやっているときは、痛えとか言ってられない。人間は精神で生きているから、そうなるんだよね。あの試合は俺も、ボールが来たときだけビュッと動いて、パスを渡した後は走っていない。

――あの試合に出場する、しないは、どういう判断で決めたのですか。

松尾: 絶対に出ない、と言ったんですよ。自分が監督になって、ずっといい続けていたことがあるんです。走れないベテランは使わないぞ。調子がよければ新人を使う。それで負けたら、それでいいじゃないか、と。先輩から年齢順に試合に出て、後輩はなかなか出られないなんて馬鹿な話じゃない。その週、その日にいちばんいい状態の選手を起用するって言って3年間貫いたのに、最後の最後、足にメスを入れている自分が出るなんてできない。もしそれでも出ろって言うのなら、監督失格だし、自分を否定することになる。ラグビーと決別しなきゃいけないよ、と。(キャプテンの)洞口にそう言ったんだけど、彼も会社の人とか、いろんな方と話をしたんだろうね。最終的に、やれるところまでやって、動けなくなったら交代すればいいとなった。どうしても出てほしい、と。
それで僕は引退すると決めたんです。アマチュアだから、本来は引退なんてないし、誰かに決められることでもない。ただ自分の中で、この試合に出るんだったら、ラグビーとはもう関わらないぞ、と。そういう気持ちでグラウンドに立ちました。
平尾:松尾さんの動向は、僕らもすごく気にしていましたね。監督の岡さんが、今回ばかりは(松尾も)出てこないかもしれんぞ、と。僕らとしては、いくら動けないといっても、松尾さんに出てこられるのがいちばんイヤなのは間違いなかった。立っているだけで気になるし、周囲を使うのがうまい。洞口さんの判断は間違ってないですよ(笑)。

――史上初の7連覇で、ストーリーも最高の完結を迎えましたからね。

松尾: それから19年間、ラグビーとはまったく関わりませんでした。東京から9年間も釜石に行っていた。仕事とラグビーばかりの日々でしたからねえ。でも、あそこに行ってなかったら、『人間・松尾』はなかったでしょう。ラグビーの松尾もなかった。

――のちにおふたりは、ジャパンで一緒にプレーをしました。

松尾: うち(釜石)のへんてこなCTBたちと比べたら、やりやすい、やりやすい。
平尾:
よく観察していたから、松尾さんの凄さをあらためて知るということはなかったのですが、一緒にやってみて、本当にパスのうまさを感じましたね。松尾さんがSO、僕がCTBで組みましたが、もう自分はSOはできないと思うほどでしたから。国立競技場で、フランスとテストマッチを戦ったんです。僕は前半に肩鎖関節を亜脱臼して、肩が動かない、うまく走れない、という状態になったんです。そんなことになりましたから、ハーフタイムにキャプテンだった松尾さんに「無理です」と言った。でも、「なに言ってんだ、出ろ」と交代させてくれない。仕方ないから、テーピングで肩周辺をぐるぐる巻きにしました。だから腕の可動域は少ししかなかったんですが、松尾さんのパスは、ピタッ、ピタッと来たんです。凄かった。
松尾: 平尾がいないと、試合がめちゃくちゃになると思ってさ(笑)。

――そんな状態でもプレーし続けられたのも、国立競技場の舞台だったからこそでしょうか。

平尾:いや、あのときは松尾さんが恐かっただけ(笑)。でも、いい思い出ですよ。僕らの時代はいくつかのテストマッチを国立競技場で戦えた記憶もありますし。

――釜石、そして松尾さんの時代が終わると、やがて神戸製鋼が日本選手権で7連覇。日本ラグビーの中心は神戸製鋼、平尾さんへと移りました。そして日本選手権は、社会人と学生の実力差がどんどん広がっていった。

平尾:大学が弱くなったわけではなくて、社会人が強くなっていった時代でしたね。一流の外国人選手が加入したりして、たとえば神戸製鋼で言えば、イアン・ウィリアムスが大活躍しました。経験は豊富で、百mを走れば10秒台。そりゃあ、誰もさわれませんよ。お互いの強化態勢、そして環境が大きく変わって、大差がつくようになった。

――それでも勝ち続けるのは簡単ではないでしょう。

平尾:7連覇の釜石とやったことがある経験は大きかったですよ。学生の心理で社会人を見たことがあるので、どういう心境で立ち向かってくるのか大体わかっていましたから。

――不安はゼロでしたか。

平尾:コツがわかっていくんですよ。そして、勝利が重なるとそれが自信につながる。釜石が毎年、最終的にはうまく勝っていたように、前半は少し頑張られても、後半は差をつけて勝つことができていました。ただ連覇の 最初の年、大東大と対戦したときは不安もありましたよ。自分たちの力をいまひとつ信用できていなかった。スクラムも弱かったので。でも、実際に戦ったら差がついた。あそこをしっかり勝てたのが、その後にとっては大きかった。

――神戸製鋼の7連覇をどう見ていましたか。

松尾: ジャパンクラスがたくさんいて、いい選手がどんどん加わったでしょう。だから、俺はどうして出られないんだとか、俺はこうしたいとか、内紛が起きたり、分裂するんじゃないかと思って見ていたんです。平尾についていく、という者が少なくなって、チームがバラバラになると勝手に思っていた(笑)。でも、まったくそんなことはなかったね。
平尾:7連覇なんてまったく考えていなかったですね。毎年、また今年も頑張ろうと、くり返しただけ。でも5連覇ぐらいになると、ちょっと(連覇を)意識するようになりましたね。勝たないといけない…というような気持ちも出たりしました。
ただ毎年、全国社会人大会が事実上の決勝(日本一決定戦)のようなところがあったので、日本選手権は気楽に戦える感じはありました。余裕を持ってゲームに臨めていました。凄い歓声を落ち着いて聞けたり、特に連覇の最後の方は自信があった。勝負に絶対はないんだけど勝利は間違いないから、社会人王者にふさわしい勝ち方をしようと目標を立てていました。
松尾: 神戸製鋼は、勝つべくして勝ったチームでしたよね。個人スキルが全然違った。でも、一人ひとりが凄くても、チームの一体感がないと勝てないのがラグビーだから、そういうものをしっかり持っていたんだと思う。
そんな神戸製鋼に対して、釜石は対照的でしたよ。大学ラグビーで活躍していた選手はほんの数人で、高校から直接入社した選手がほとんど。それも、ラグビーが上手だから来たのではなく、みんな釜石に来て、猛練習をしてうまくなっていった。石山(次郎/PR)、千田(美智仁/NO8)も、みんなそう。その真摯な姿勢には、涙が出るよね。技術職の選手たちはヘルメットを被り、太い革のベルトに何kmにもなる工具を入れ、安全靴を履いて作業現場に出る。そこに階段があるなら、どうせなら小走りであがるとか、つま先立ちするとか、練習はグラウンド以外でもできるということを本当にやれるチームだったんだよね。僕も家から30分走って出勤したりしていました。ラグビーに対する考え方はみんな、本当に凄かった。まあ、いつの間にか、負けたらどっかに行きたくなるようなプレッシャーの中で戦っていたからねぇ。
平尾:いまでも憶えている光景があるんですよ。神戸製鋼に入社した年の関西社会人リーグでした。同志社大学時代は結構お客さんが入っている中でプレーしていたのですが、入社後初めての試合で神戸中央競技場に行ったとき、バーッとグラウンドに出て行くと、お客さんがほとんど誰もいない。ポソッ、ポソッと少しずついるだけで、それも、みんな顔が分かる。誰かの友達。家族。会社の中の熱狂的なファンの方…。知り合いばかりでした。でも(日本選手権などで)勝ち始めると、人がどんどん増えた。勝つことで環境が変わっていったんです。会社、地域でファンが増えた。それは本当に嬉しいことでしたね。
ただ、それと同時に、先ほど松尾さんが言ったように、自分たちの中で「勝ちたい」と思っていたことが、「勝たねばならない」という義務感が増していくことも感じました。純粋に好きでやっていたのに、ちょっと違う、へんな責任感を感じながらプレーしていた。

ドキドキ感が高まる新国立に。

――国立競技場もいったん歴史を閉じ、2019年には生まれ変わりますが、どんな舞台を望みますか。

松尾: 選手たちがやりやすい競技場に変わっていってほしいですね。プレーヤーの最高のコンディションを作るための改造をしてほしい。そして、お客さんのために。それも重要視してください。ファンがたくさん集まるから、いいプレーが生まれるんです。それを考慮せず、はい作りました、はい見てください、では、ただの独り相撲ですから。
平尾:当時、僕らはそれが当たり前と思ってプレーしていましたけど、海外のスタジアムに行くと、立ち後れ感を感じることもあった。だから、(スタジアムの)環境面で海外に追いつくのも(競技レベルを上げるために)大事なことと思いますね。例えば、これまでの国立は、インゴールが狭かった。それだけでプレーの選択肢が減る。そうなると、ゲームの質感が変わる。トライの方法がFWで取るか、パスを回すだけに限られると、ゲームのドキドキ感が少なくなるでしよう。予測できるというのは、ゲームの面白みが減るということ。興奮が増すようなスタジアムにしてほしいですね。

――5月25日には国立競技場で、日本代表が香港と戦います。ワールドカップ出場のかかった、アジア五カ国対抗最終戦。選手とファンにメッセージを。

松尾: いろんな方への感謝の気持ちを胸に戦ってほしいですね。かっこよく言うと、多くの人たちの血と汗が残っている場所。そこで最後にやれるのは素晴らしいことですよ。嬉しいよね。悔いのないように戦ってください。そして、ひとりでも多くの方にラグビーの素晴らしさを知ってほしい。
平尾:日本代表に選ばれ、戦えるのは誇りです。また、今回のような記念すべき日にゲームをさせてもらえる選手たちがうらやましいですよ。最後にここを使わせてもらえるのは、それだけ(ラグビーの)存在価値を認められているのかな。嬉しいですね。ゲームの中身も凄く大事だと思います。すべてがワールドカップにつながっている。しっかり出場権を手にして、期待を高めるような内容で勝ってほしい。それは、きっと2019年の日本でのワールドカップ開催につながります。その第一歩を、5月25日から踏み出してください。

――当日はスタジアムに行かれますか。

松尾: どうしようかなあ。レジェンドには招待状でも来るのかな(笑)。ジャパンのジャージーを着て、海外遠征で命を懸け、大きな男たちにタックルしてきたのにさ、何もないでは…。そういうことをしっかりやっていかないと、ジャパンってなに? となってしまう。あんなに頑張らなくてもよかったな、となったら寂しいじゃない。

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ラグビーマガジン編集部

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